その人の生きてきた環境や他者の関わり中から導き出された自分の倫理観・自然観・死生観などの見方を「思想」と呼ぶのだろうか。
「思想」などという小難しい言葉はあまり馴染みがないですが、今日は少し踏み込んでみますね。
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抑圧の中で芽生えた怒りの感情を、出す事も理解される事もまた受け入れられることもなかった人にとっての思想はどうだろう。
皆とは言わないが、その屈辱と鬱憤を出すことができなかった人が孤独のなかで作るそれは、自分の気持ちを晴らすかのように言動を正当化しがちである。私たち人間には自分を防衛する反応が備わっているのだから当たり前であるが、その思想は闇であり、鬱屈し、他を寄せ付けない程の破壊力を持つこともある。
例えば、自分の不遇を他者や社会にぶつけた阿部元総理大臣の襲撃事件。母親がのめり込んだ宗教によって生じた家族の不幸を政治家に向け、あたかも筋の通った立派な理論に見せかけたその思想には、境遇への同情こそあれど、その犯行は憎しみが美化された稚拙な屁理屈に過ぎない。
また、長野県で起きた議員の息子の立て篭もり事件では「ぼっち(独りぼっち)」とバカにされたと思い込み、警官を含む4名が犠牲になった。少し前に遡り2016年の相模原施設で起きた殺傷事件では、意思疎通のできない重度の障害者は不幸かつ社会に不要な存在であるという思想があった。京都アニメーション放火殺人では自分の作品をパクられたという思い込みで多くの人を巻き込んだ。
また映画「ジョーカー」の主人公も、同じく自分の不幸不遇を社会に向けた。
捻じ曲がってしまった思想の行き場は破滅でしかない。こういったエネルギーと勢いはとてつもなく大きく膨れ上がり、それを食い止める力は限りなく小さい。動く方向は破壊でしかなく、自他共に破滅する事が多い。
そして事件にならずとも同じ心を持つ者は多い。他人事とは思えずその衝動を抑えながら依存癖や希死念慮に駆られている。自分に向くか他者に向くか、そのどちらも悲劇である。
そしてその原因のおそらく全ては、幼児期における虐待がある。虐待とは目に見えるような暴力や他人に分かるほど酷い扱いをされずとも、ただその子供の尊厳を見落とすだけで成立する。全てが家庭という密室で起きている。その親に自覚があろうがなかろうがだ。
上記の事件における犯人達の生い立ちからもその片鱗は伺える。
残念ながらその中から抜け出せる人はひと握り。その子供の心には取り返しのつかない空洞と傷を与え、追い込まれた心を守るには他者からの陰謀説を作るしかない。その昔、救われるべき存在だった幼子がモンスターに変わった。その方法でしか自分の存在を示せない姿は悲しくも哀れである。
もしも食い止める力があるとすれば、それはその人を心から支え守り通せる人の存在。待っていてくれる人の存在。それに出会えたなら、その人は自分を生き直すことができ絶望と破滅から解放される。それが生易しくないのは、自分の力だけで叶わないからだ。
京アニの犯人が病院の主治医らから自分を全力で治そうとしてくれた姿に涙したとの記載がある。そういう人にもう少し早くに出会えてたなら…
しかし、そういう存在に巡り会えずとも過去の自分に起きていたこのカラクリを今の自分が理解すること、自分も望んでいいんだということを知ることは大事。
絶望してしまう人の多くは優しい心根の持ち主が多いことを周囲は気づきにくい。だもの絶望から起き上がれないのも頷ける。そして絶望と同じだけ今でも優しさに飢えているということも真実。
そしてこういう人間がいるということ、差はあれど人の心は自分以外から如何様にも変えられてしまうものだということ。それが人間、こういう話を多くの人が知るべきだと私は思っている。