対人恐怖に苦しむ方へ

対人恐怖に苦しむ方へ

緊急事態宣言下の静岡県沼津市、マザーアースの浅野です。ワクチン、皆様は打ちましたか?私は1回目終わり、その夜から発熱でした。2回目はどうなることやら…

さて、対人恐怖に苦しむ方々は多いです。今回もまたこのテーマで書いていますので、興味のある方に読んでいただけたらと思います。

こちらも参考にしてください:対人恐怖(マザーアースHP)

対人恐怖のしくみ

対人恐怖とは、自分の目線で人と居られない状態をいいます。コミュニケーションにおいて、みんなが「普通」に会話してるのに、それができない状態にあるのです。

だから人と居るのが苦痛で基本的には人を避ける。人と居るときは黙る、人に合わせる。胸はドキドキして血圧は上がり、頭がパニくり、挙げ句の果てに上手く出来ない自分にキレる。それを見破られないように平静を装い、ひたすら終わること、過ぎ去るのを待つ…

そしてこれさえなければ何でもできるのにと自分を卑下し、そうならない自分を渇望し克服すべく努力するのです。

加えて、この状態が起こるのは人といる時に限らない。ひとりでいて何らかの作業をしてる時、信号待ちをしてる時や道路を歩いているときでさえ、自分の自意識が自分の姿を罰してしまうのです。

彼らの目指す「普通」とは何か

「人と普通に居られること」それがいかに難しいか。でもどうしてそんなことになっているのでしょうね。

多くの人にとって自分の立ち居振る舞いに関して「普通かそうでないか」を気にする人はそういません。何故なら、その立ち居振る舞い、自分の目線で動くことは至極当たり前だからです。

比べて対人恐怖の人における普通とは、人から笑われないでいられること、恥をかかないこと、人から攻撃されないでいられること、つまり基準は相手にあり自分の素を晒さず隠し通すこと。そのための言動は聖人君主をお手本とした振る舞いに近い。或いは静かに、邪魔にならず、黙ってそこにいる。

それがどれほど神経を張り詰めた状態なのかと言うと、過呼吸なのに人に察知されずに我慢しているのと同じ。おかしいと分かったとしてそれを止める術を知らず、時が過ぎるのを待つのみ。

何故そうなるのか

何故そうなるのか…それは「自分の目線」がわからないというよりも、その目線に安心できていないから。自分の言動にそれでいいという安心感がないから。だから闇雲に「普通」を目指してしまうのです。

その背景には自分は人と違う、人より劣ってるという自己評価の低さがあります。つまりダメでもいい出来なくてもいいという許可、概念がありません。この殆どは、他(殆どは親)の価値観によって自分の安心感を得られない状況が過去にあったということです。

親子カウンセリングの場において、よく親の言い分として、子供に「寄り添う時間がなかった」「寄り添って来れなかった」ことが挙げられます。忙しかった親たち、諍いが絶えなかった親たち…しかしそれが1番の問題ではなくて、その親の日常における価値観を、子供ながらに「見て取れ学習した」だけなのですよ。

あの人ダメね、恥ずかしいわ。この人凄いわ、お手本にしなくちゃという他人への評価や、あなたのせいよ、お前が悪いというような夫婦間のやり取り。これら全てを子は熟知しています。

親の資質と子の資質、違うとこだってある筈なのに、暗黙のうちにそれを生かすも殺すも親次第では、たまったもんじゃないですね。

対人恐怖からの脱却とは

対人恐怖から脱却の過程では、親との対峙が通過儀礼となることがあるのですが、これに相当な困難を感じる方がおられます。何故ならば、自分の全ての原点となる親というものに対しては色々な感情があり、親に疑問を持ちつつも嫌えない、または逆に、親への憎しみから逃れる術を見つけられなくなってしまうのです。

そこには、「親」と親の「価値観」を分けて考えられないという厄介な事情があります。しかし脱却とは、親からの脱却ではなく、価値観からの脱却を意味する。つまり実は親もその価値観に縛られていて、偏った価値観で自分を縛っていることに着目できることです。

「その価値観」とは何か

さて「その価値観」とは何か。それは、善か悪か、失敗か成功か、白か黒か、優か劣かなどの二元論的な見方であり、一方のみを認めそれ以外を強く排除してしまう考え方。また完璧な頂点100点以外は99点であろうど0点と同じだというもの。だもの自分を恥じ責め痛めつけるしかなくなるのです。

これがあると、自分自身の思考や嗜好が無視され、あたかも頭と心それから身までも自由を奪われる状態となっていき、自分の言動を徹底的に律し、反する部分を徹底的に叩きのめしていまいます。しかしいくら自分を律していても、街行く人やTVの中の模倣ぶりが自分を掻き乱す。こういうときにやってしまうのが、人を見下すことで自分を安心させること。まさに二元論の応用ですね。

二元論の価値観から脱するには、先ずはその自分の状態に気づけること「あ、いま二元論の思考になってる」「あ、また比較してる」と認知できること。そしていかにいつも自分が二元論のスポットにはまり込んでしまっているかに気づくことです。

対人を恐怖する、人が怖いだなんて、これ程生き辛いことがあるでしょうか。ここから抜け出るには努力や頑張りが必要なんじゃなくて、何に縛られているのかを知っていくことなんですよ。

以上、対人恐怖についてでした。