命の重さについて

みなさま、こんにちは。静岡県沼津市にある心理カウンセリング事務所「マザーアース」の浅野です。

9月に入り、まだまだ暑い日が続いてますね。コロナ不安も治らない中、近頃では、次期総理大臣選びの話題で一杯。アメリカの大統領選挙とも相まって、それぞれの候補の人となりが紹介されていますね。

どうなるのか…他人事では済まされない世の中なんですけどね。

さて、今日は少しヘビーなテーマで書いてあります。宜しければ、お読みください。

命の重さについて

重い話です。

コロナの怖さもさることながら、失業や倒産で職ばかりか命までも奪われる怖さが現実の今日この頃。人が命を失う、奪われるのを止めるのは、なかなかできることではありません。

生きるのを辞めたくなる、そんな心境に陥ってしまう時、人は無力です。後になっていくら後悔しても、その時点での「〜たら、〜れば」はなく、残された人が自分を責めてしまうのを、慰める言葉もなかなか見つからない。

何故死ぬのか?その答えが見つからないことは多い。だけれども、自分の存在を大切に思えなくなった時、それは起こる。

自分が生きる理由や意味や価値、それらを見出せず絶望してしまったなら、自分の命の重さは限りなく軽くなってしまうから。

そして、もし、ひとりじゃなかったらそれは起きにくい…

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若年層ほど、自分の存在を、自分以外の誰かに大切にされたなら、そういう人の自死・殺人はない。

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「命の重さや価値はどれもが同じく大切なもの」そんなことをどんな偉い人、神様仏様に説かれても響かないのは、それが「人間の命についての説教」であって「自分の存在への実感」ではないからだ。

つまり、同じ時を過ごす日常で「私の命と同じだけあなたが大切」という実感体験を授からなければ、それはただの戯言であり、机上の空論に過ぎない。

人は本来なら、生まれながらの家族がいる。そしてそこから派生したコミュニティがある。その中で「大切にされるということ」が教えられ、与えられなかった人にとって、自分の存在を大切にするということを分かるのは難しい。結果、「命は大切なもの」という意味は理解できない。

情を交わす誰か、それがなければ、長い人生ひとりでは乗り越えられない。心に注がれる眼差しや温もりを届けられなければ、「自分を大切にする」意味は分からず、「命の尊さ」などいくら解いても釈迦に説法なんだよね。

誰か1人にでも自分の存在、つまり心に触れられ大事に扱われた経験のある人は、それ以後の人生に於いて、死の葛藤に出くわすことがあってもその選択をすることはないだろう。また、虐待や殺人に走ることはないだろう。

それらが起きるのは、その人が自分の大切さを、まだ知らないからだ。

生まれてから1日1日過ぎていく時間の中で、ただの一度も自分の目を、心を覗き込んで微笑んで貰えないなら、それのどこに生きる意味を見出せるだろう。どうしたら自分に価値を見出せるだろう。

ただの一度も…この言葉の意味を重さをわかるだろうか?

なぜ死んではいけないのか?と問われた時、その眼差しが真剣である程、それと同等の想いでしか太刀打ちはできない。分かったようなセリフは失礼。

だから、もしその選択を引き止められるものがあるとすれば、嘘のない話だけだろう。