対峙するということ

みなさんこんにちは。静岡県沼津市にある心理カウンセリング事務所「マザーアース」の浅野順子です。

北極圏の町で6月、気温38℃を記録したそうです。これまでの平均気温が20°Cだと聞けば、これがどれほど恐ろしいことかがわかりますね。

温暖化は加速しかなく、現在起きているコロナ以外の感染症も増えるであろうことは避けられず。

私たちの今できることは、マイ・エコバックを持ち、マスクをしながら、人とのコミュニケーションを大切にすることですかね。

さて、今回から2回に渡って親との対峙について載せていきます。

親と対峙するということはどういうことで、どんな意味があるのかを書いてみました。

先ずは「対峙するということ」です。ご覧ください。

対峙するということ

自分を見つめなおしていく過程において、過去の体験や親について掘り起こし、 あのときこうだった、ああしたかった、こうしてほしかった などと思い出していくことがある。

当然、親と対峙することもあり、過去に言いたかったけど言えなかったことや、 わからなかったけど思い出したり解ってきたことなどを話し始めることは、うんと大事。

対峙して話して親に理解してもらえることは、これまた、うんと大事だが、 きちんと理解してくれる親は、残念ながらあまりいない。

でも親と対峙する目的は、親に解ってもらえることではなく、 対峙しながら客観的に正確に親の反応を見ることで、きちんと見切れることにある。

「親は理解できないんだ」と理解できたり、或いは、 理解できない親と距離を持つことで関わらないようにし始めるとか、 要するに、親のことを客観的に解ることで、過去の済んでいなかった気持ちにケリが着いて、関係が変化してくる。

そういう意味で、親との対峙はした方がいいと思うが、 親との関係が済んだとしても、自分が自分のことをちゃんと知らない限り、 苦しみは終われない。

子供は、百歩譲って、子供という立場からすれば親の被害者であっても、 だから自分はこうなったと言いながらでは生きられない。

他人や世間は否応なく自分に関わってきて、それらを振り切るには引きこもるしかなくなる。 それができてるうちはいいが、いつまでそうしていても始まらないだろう。

自分が自分と向き合うということは、自分の中に棲む奴らと話をつけるということ。 親にしたように、自分が自分とぶつかって、ケリつけることです。